ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃

「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(2001年、東宝)


 新たな伝説をつくるであろう歴史的大傑作といえる映画である。
 ミレニアム以降のゴジラは、全て初代ゴジラの直結の続編という設定で毎年制作されているが、本作は、中でも白眉といえる出来だ。
 平成ガメラの金子修介監督をはじめ、平成ウルトラマン・鉄甲機ミカヅキなどに携わった、現代日本の映像界における最強のスタッフが集って創りあげた、究極のゴジラといえる。
 ゴジラとはなんなのか? 日本人にとっての怪獣とは?

 金子監督は、明確な答をだした。怪獣映画の本質に鋭く斬りこむ本作の前では、かの米国版ゴジラなど、足元にも及ばない。


物語
 平和憲法と、「防衛軍」という軍隊をあわせもつ、架空の日本が舞台。

 昭和29年のゴジラ襲撃にて、防衛軍は、戦後唯一の実戦を経験した。爾来、日本では平和がつづいていた。
 しかし、防衛軍の立花泰三准将は、5歳のころ、ゴジラに襲われて両親を失った記憶を忘れたことはない。立花准将は、かつて、軍がゴジラを撃退したことを誇りとして、軍務にはげんでいる。

 ある日、グアム沖で米原潜が撃沈された。調査にむかった防衛海軍の調査艇「さつま」は、巨大な背ビレを目撃。立花准将は、ゴジラの再来を予感し、軍に警戒をうながすも、平和になれきった政府と軍の対応は遅かった。

 立花准将の娘・由里は、「BSデジタルQ」という三流TV局に勤めるリポーターであった。
 新潟のロケ地で、ヤラセのオカルト番組を制作している最中、由里は、奇怪な地震と、謎の老人に遭遇する。
 同時期に、新潟県妙高山にて、トンネル落盤事故が発生。暴走族の若者が多数死んだ。生き残ったトラック運転手は、巨大な生物をみたという。
 鹿児島県池田湖でも、犬を虐待していた若者たちが溺死し、繭状の遺体となって発見されるという怪事件がおこる。
 つづいて、富士の樹海。氷穴のなかで、眠っているらしい巨大生物が目撃された。震源が移動する謎の地震が続発、聖獣たちの復活が示唆される。

 三流TV局にあっても、由里は、仕事に対する誇りを失っていなかった。熱心にそれら怪事件の調査にあたっているうち、彼女は、古くから日本につたわる民間伝承にたどりつく。

 「護国聖獣伝奇」。
 はるかな昔、大和の倭人に退治され、眠りについた3聖獣がいた。かれら聖獣たちが、狛犬や龍神伝説の元となったのだという。そして、3聖獣が眠りについているという場所は、怪事件のおきた場所と一致していた。
 いっぽうで由里は、不気味な謎の老人、伊佐山から、ゴジラと護国聖獣に対する新たな解釈をきいていた。老人は、ゴジラは生物ではない、残留思念の集合体なのだ、という。かつての戦争で死んだ人々の怨念が、宿っているのだ、と。
 もう残された時間は少ない……。ゴジラは武器では殺せない。聖獣を覚醒させるしかない。老人は、言った。

 危機感を強める立花らの説得もむなしく、情報の信憑性をうたがった軍は、対ゴジラ警戒網を解除してしまう。

 そんななか、ついに、ゴジラが焼津市に上陸した。人類に対する憎悪をたぎらせるかのように、ゴジラは逃げまどう一般市民に放射能熱線を吐きかけ、清水市を全滅させる。
 たちのぼった巨大なキノコ雲を、遠方で目撃した市民は、ただ一言つぶやく。「原爆……?」

 震源の正体は、聖獣の1体、バラゴンであった。ゴジラとバラゴンは、箱根山中で激突。多数の市民を巻きこみながらも、バラゴンは、圧倒的に巨大なゴジラに対し、果敢に挑むが……。

 由里は、多くの人々の死を目前にしてなお、報道をつづける。自転車を駆って、単身、怪獣たちの戦いを追っていく。

 護国聖獣や軍の攻撃もむなしく、ゴジラは横浜にまで侵攻する。立花准将は、みずから巡洋艦にのりこみ、現地部隊の指揮を執る。

 だが、ゴジラの戦闘力は圧倒的だった。護国聖獣モスラはもちろん、復活まもないキングギドラも参戦するが、有効打をあたえられない。強力な放射能熱線の前に、つぎつぎにふきとぶ市街!
 有効と思われた削岩ミサイルも、護国聖獣の攻撃も、全く通用しない。イージス艦すら、一撃で爆散し、多くの兵士が熱線の前に消えた。
 横浜は、焦土と化した。

 のこされた手段は、ただひとつ。それは、ほとんど生還の可能性のない、危険な作戦だった。だが、防衛軍の兵士たち、そして立花准将は、戦いつづける道を選んだ。

 由里は、必死に戦う聖獣たちと、軍人としての父の言葉に、心を動かされ、自らもまた、かれら戦士たちが戦う姿を、最後までライブ放送しつづけることを決意するのだった。

 いつ死んでもおかしくない状況−−海底でギドラとゴジラが戦うすぐそばのベイブリッジから、由里の命がけの報道がはじまる。
 彼女が見守るなか、准将が乗りこんだ潜水艇<さつま>が、海中へと発進していく。

 いま、護国聖獣や防衛軍、そして全ての人々が総力を結集して、最後の戦いをいどむ!

特撮的みどころ
 全体的に特撮のレベルが高く、全てがみどころといってもよい。

 本作の特撮は、徹底的に、襲われる人間の視点から描写されているため、観客は、犠牲者の恐怖を実感できる。これが、怪獣映画の本来あるべき姿であろう。

 造形的には、まず、ゴジラの目が斬新である。意志が感じられない、白目だけなのである。まさしく恐怖を具現化した、本来の怪獣らしい目といえる。退廃した人類を裁くカミとすらいえるかもしれない。

 ゴジラの悪役っぷりにも注目である。倒れたバラゴンに執拗な蹴りをあびせ、市民を虐殺する。

 冒頭にいきなり米国版ゴジラを揶揄するセリフがあるが、特撮でも、あえて米国版と同じ表現をえらび、真っ向から勝負しているかのようだ。怪獣の出現場面では、表現が難しいとされる水の描写に挑戦し、米国版に負けない質をみせてくれる。水中を身軽に泳ぐゴジラも、同様。

 バラゴンの、地中からの不意打ち攻撃が、いかにも地底怪獣らしくて良い。こういう、怪獣の設定を生かした戦術描写は、理想的といえよう。
 モスラやキングギドラの飛翔シーンも、翼のはばたきなど、これまでにない生物感にあふれている。

 今回、ゴジラの熱線が、なぎはらうような連続照射という、熱線ならではの表現を追及しており、金子監督らしいと感じた。ガメラでは砲弾のようなプラズマ火球を描写したので、ゴジラでは、正反対の「光線」を描こうとおもったのではないだろうか。色が本来の青にもどっているところも良い。熱線の色は、チェレンコフ光の青でなければならない!

 特に、高層ビル内からの兵士の視点で、モスラを追って吐かれた熱線が外れ、ビルに迫ってくる場面は、圧倒的な恐怖と迫力があり、息を呑む出来ばえだ。
 光線技は、怪獣を印象づける重要な効果である。こうしたところもおろそかにしないところが、素晴らしい。

 墜落した戦闘機のまきぞえを食って炎上する民家の場面も、見ごたえが在った。金子監督は平成ガメラで戦闘機の墜落を描写したかったらしいのだが、空自の反対を受けて、お蔵入りしたらしい。こんなところにも、スタッフの執念とこだわりが感じられる。
 孫の手島の民宿もだが、かわらの1枚1枚まで作り込まれたミニチュアの精度も素晴らしい。

 完全体となるキングギドラの神々しいまでの美しさ、熱線を反射してまきおこる大爆発、壊滅する横浜市街、崩壊するレインボーブリッジ、防衛軍のこれまでにないゴジラ撃滅戦術、そして、ラストの衝撃的なあの物体などなど、最後の1秒まで気を抜けない、みどころの連続である。

SF創作的みどころ
 本作は、もはやSFという枠におさまらない作品である。怪獣王ゴジラという巨大な存在は、それを許さないのだろう。
 生体兵器という設定で、ハードSFとして描かれた平成ガメラ1〜2とは全く異なり、直接的には、SF創作に役立つ要素はない。怪獣ひとつとっても、聖獣や思念体という設定なので、ガメラやメガギラスでみられた緻密な生物学的描写、という要素はみられない。

 しかし、より巨視的な視点から、学ぶべき点がきわめて多い。
 まず、ドラマ面では、ゴジラを完全な悪役に設定した点がおもしろい。従来は、ゴジラ・敵怪獣・人類という三つ巴の構造があったため、観客は、ゴジラと怪獣が戦っている時はゴジラに感情移入せざるをえないのに、敵怪獣が倒れたら、今度は登場人物に感情移入し、ゴジラが撃退されるのを見守らねばならなかった。
 が、明確にゴジラを敵として設定し、他の怪獣を味方としたことで、ドラマ的に、きわめて明快な構造となっているようにおもう。これにより、物語がより白熱するのである。

 外見的には、敵であるゴジラは、感情をよみとれない不気味な白い目をもち、味方の聖獣たちは、可愛らしい瞳をもつ。
 護国聖獣の1頭、バラゴンは、小柄で丸っこい身体で、果敢にゴジラに挑んでいく。バラゴンの演技者は身長146センチの小柄な女性で、逆に、ゴジラは2メートル20センチというこれまでにない巨大な着ぐるみであり、体格差が表現されている。

 観客の感情移入をさそう仕かけが、怪獣の表情はおろか、体格、戦術にいたるまで、巧妙にほどこされているのである。
 キングギドラも、復活したばかりで、まだ雛鳥のような弱々しさがある。着ぐるみも、従来のギドラより首が短く、小柄であるという。
 物語の構造が、キャラクターのあらゆる要素に反映される良い見本である。キャラクターデザインにおいては、物語全体の構造をも視野に入れねばならない、ということが学べよう。

 平成ガメラシリーズもそうだが、金子監督の作品は、人物描写に厚みが在るとおもう。
 無駄な台詞がないことはもちろん、ちょっとしたシーンにしか出てこない人物にも、彼らのそれまでの人生や世界観がうかがえるのである。これは、SFやファンタジーというフィクションを描く上で、きわめて重要な点である。

 たとえば、焼津港で、赤いゴジラが現れたというニュースをきいた老漁師が、「ゴジラは赤くねえ」と呟く場面。
 この一言だけでも、漁師がかつて初代ゴジラの襲撃を経験していることが伝わるし、社会的にもゴジラの脅威が広く人々に浸透している世界観がよみとれるのである。

 「BSデジタルQで領収書を」といわれ、「ブリジストンかい?」とききかえす自転車屋の店主がいた。
 この一言だけで、彼が、自転車ひとすじに生きてきたことがうかがえよう。緊迫したクライマックス近辺で、観客に一息いれさせるという効果があることも考えると、実に心憎い演出といわねばならない。

 多くの人々の人生が肌で実感できる描写があってこそ、最後の戦いに、それら登場人物がいっせいに由里の命がけの報道に注目する場面で、観客の感動をよぶのだとおもう。
 台詞の一言一句まで、おろそかにしてはいけないという好例である。

 技術的には、架空の日本・軍隊を描いているにもかかわらず、重厚な仕上がりになっている点にも注目したい。
 まず、「護国聖獣伝記」など、ファンタジー的設定が、いかにもそれらしい単語や小道具により支えられていること。SFやファンタジーにおいては、固有名詞のネーミングセンス如何で設定が左右されるのである。むろん、設定自体が凡庸では話にならないが。
 語り手が、気味の悪い謎の老人(天本英世)である点も、預言者のごとき謎めいた雰囲気があり、観客の耳目をあつめる。単に科学者に語らせたりするのではないあたり、さすがである。
 SF設定の説明のしかたにも、このように、工夫をこらすべきである。

 架空の軍隊は、これまでにもGフォースやGグラスパーがあったが、存在感が在ったとは言い難い。細かな軍事用語や、実在しそうなリアルなデザインの兵器、用兵描写があって初めて、本作の防衛軍のような重厚な存在感を演出できるのである。
 これが、放射線が出ているはずのゴジラ細胞を素手で扱ってしまうようでは、リアリティなどあったものではない。

 血の通った軍人らしさということについては、型にはまらない、宇崎竜童の演技力によるところも大きいといえる。良き軍人であり、父でもある、彼の演技に注目したい。
 小説・TRPG・マンガでは、そうした描写のすべてを創作者が行うのであり、多いに参考にすべきである。

 総じて本作は、きわめて学ぶ点の多い歴史的な傑作といえるだろう。



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表紙へGクラッシャー!!


2001.12.19.