小さき勇者たち ガメラ


2006年、角川ヘラルド映画


 「ガメラ3 邪神覚醒」から実に7年ぶりの、期待の復活ガメラ! 当然、前日に体を清め、初日の初回に劇場へとかけこんだ。


 全体的には、非常に良心的かつ意欲的なファンタジー怪獣映画だと感じた。家族で楽しめる傑作である。

 三重の漁村が舞台であり、主人公は小学生の少年である。その少年が、過去に自爆したガメラの子孫? らしき子ガメを育て、やがてガメラとなっていく中での、交流と別れをえがいている。

 この「小さき勇者たち ガメラ」は、懐かしい日本の原風景のような、漁村の情景をたっぷりみせながら、ひと夏の少年の成長を描いたジュブナイル。そんな構成をとっている。とくに前半は、映画「ジュブナイル」や「のび太の恐竜」をおもわせる出来で、少年時代を懐かしく思い出させる。

 主人公が、部屋の窓をあけると、すぐ隣には幼なじみの少女の部屋があって、窓越しにマンガ本を受け取ったりできたりしちゃう、なんとも理想的な状況設定である(笑)。

 シナリオ構成など、よく考えて作ってあるようだ。このテの、子供を主役にしたファンタジー怪獣映画というと平成モスラ三部作を想起するが、それと比べれば、かなり楽しめる。

 「小さき勇者たち ガメラ」には、自衛隊の戦闘機などは、一切登場しない。SF軍事シミュレーションとして完成度の高かった、平成ガメラ三部作とは全く異なる、新しいガメラなのである。

 そうしたシミュレーション的な視点は忘れて、制作者の意図どおり、少年の視点で鑑賞すると、実に泣ける、感動的な映画となっている。

 本作の狙いは、従来の怪獣ファンだけでなく、「E.T.」のように家族で楽しめる映画、ということにあったとのことで、それは見事に成功しているといえるだろう。

 とにかく本作は、主人公の少年と、ガメラとの交流に主眼が置かれている。一方で、怪獣の恐怖や破壊描写も、これまでにない視点でえがかれ、好感がもてる。

 1973年、伊勢湾で、ギャオス群と戦ったガメラが自爆した。
 30年後の現代、ある少年が海岸でみつけた卵から、ガメラの幼体が孵化する。

 少年は、こっそり家で赤ん坊ガメラ「トト」を飼育するが、トトは急速に成長し、少年の前から姿を消してしまう。そんなある日、海上から、巨大な海魔獣ジーダスが出現、街を襲撃し、人々をむさぼり食う。
 少年が襲われそうになったとき、成長したトトが、ジーダスに立ち向かうのだった!

 というすじがきで、前半は、33年前の「アヴァンガメラ」対「オリジナルギャオス」戦以外は、全く怪獣が画面にうつらない。とにかく徹底して丁寧に、三重県の漁村での少年たちの暮らしと、そこに溶け込んだ小さなガメラとの暮らしが描かれる。

 これが、後半で効いてくるのである。

 主人公である透少年は、母親を交通事故で亡くしている。そのため、卵からかえったトト(赤ん坊ガメラ)を、とても大事に世話するのだ。

 透は、母を亡くしたせいか、「死」ということにとても敏感だ。よくある類型的な子供キャラクターではない、どこか翳りのある、実在感がある少年である。役者の演技も見事だ。

(余談だが、新宿某劇場で初回をみたあと、売店でガメラぬいぐるみを買うため並んでいたら、後ろに、透を演じた富岡氏の友達らしき子供たちがいて、会話が面白かった。
「富岡君主役じゃん、大活躍じゃん」「オレ、今度あいつのパンツぬがしちゃおww」とかいっていた(笑)。)

 そうした少年であるから、最初は、トト=ガメラ であることを必死に否定しようとする。
 なにしろ、過去のガメラは、最期は自爆したのである。母親に続いて、トトまで失いたくない、透のその思いが、本作のドラマの主軸となっている。

 しかし、凶暴な敵怪獣・ジーダスの襲撃に対しては、ガメラに戦ってもらうほかない。ガメラがその戦力を最大に発揮するためには、「赤い石」が必要だ。しかし、それを渡せば、ガメラは自爆してしまうかもしれない。

 そもそも、ガメラは、透たちを守るために戦っているのに、少年たちに危険を冒させてまで、「赤い石」を手渡してほしいと思っているのか。

 また、幼なじみの少女も、重病をかかえており、ここでも「死」の陰がちらつく。ジュブナイルとはいえ、かなり重い主題をあつかっている。

 モウ、とにかくガメラが健気で愛おしい。少年が頑張るのも頷ける。
 だが、透たちが危険を冒してガメラを助けようとすることは、その父親や、ガメラにとっても、好ましくないことなのだ。ガメラは、子供たちを助けるために戦っているのだから。

 そして、透としても、ガメラに自爆などしてほしくはないのである。しかし、ジーダスに勝つためには……。

 ジーダスとのはげしい死闘のさなか、ガメラを前に、透少年は言う。

「なんでトトだけ戦わなきゃいけないんだ! このあいだ、目の前で生まれたばかりなのに!」
「これは生きるための石だ。死ぬなんて許さないからな。生きろ、トト!」

 透少年は、亡き母と、重病をかかえた幼なじみとを、苦戦するトトの姿に重ねていたのかもしれない。

 だが、トトは、ガメラとして、強大な敵と、戦わねばならない。多くの人々が、ジーダスに襲われ、傷つき、命を落とした。
 もはやガメラは、少年一人だけの存在ではない。もっと多くの人々のために、ガメラは、死地に赴かねばならないのだ。

 母の死を克服し、「私」よりも大きなこと、大事なことがあること、大事なものを守るために傷つかねばならないことがあること。これを少年が知り、成長していく物語、それこそが本作の主題であるように思った。

 ……個人的には、「死」すなわちアヴァンガメラ(先代のガメラ)の自爆を否定する、透少年のこの主張には疑問がある。

 透の気持ちは分かる。しかし、ときとして、生命よりも大事な「何か」を守るために戦わねばならぬことは、実際にあるだろうからだ。その思い、自己犠牲の精神は、なによりも尊い。

 本作とは無関係だが、私は、先の大戦で命を散らした若者たちのことを思い出し、少年の考えは素朴すぎるように感じた。靖国神社に遺されたかれらの遺書をみると、かれらは、洗脳されたわけでも強制されたわけでもなく、自分たちの命よりも大事な、守るべきものがある、そう信じて出撃していったことがよくわかるからだ。

 何がなんでも生きろ、死ぬな、と連呼するだけでは、アヴァンガメラの死が無意味だったと言っているようにも聞こえてしまう。

 もっとも、少年も、その点は最後には感得したのかもしれない。
 最後の場面の「あの」ひとことが、それを意味しているようにもとれる。

 そうした「公」「大人」の立場を代弁するのが、透を止めようとする父親である。

 また、透の父親は、妻を亡くし、それまで余り交流していなかった一人息子との会話にとまどう。
 ここで、この映画をみるであろう大人にも感情移入できる視点が描写されており、よく考えられているとおもう。

 前半で、ユーモラスにトトと少年の日常を描き、後半でこうした「重い」展開がつづくため、見ごたえがある。計算された構成である。

 本作では自衛隊のメカが登場しないことがマニア的には不評だとおもう。
 しかし、こうした主題を生かすためには、それで正解だと感じた。徹底的に、少年から見た視点で、ハナシをつむいでいるのである。

 だから、政府の対応や、国家としての動き、怪獣の情報は、せいぜい新聞やニュース程度でしか観客にも入ってこないのだ。

 そして、少年をとりまく身近な事象を丁寧に描写することで、一気にクライマックス近辺で盛り上げているのである。巧みである。

 終盤、ガメラのエネルギー源である「赤い石」をガメラに渡すため、互いに見も知らぬ少年たちが次々と、避難民の群の中を逆走して、「赤い石」をリレーしていく場面など、感動的、かつ神秘的ですらある。
 実際、2回めに劇場で見たとき、わたしの隣にいた中年の女性は泣いていた(笑)。

 この場面に、わたしは、日本の怪獣がもつ独特の神秘性を見た。昔は、俗に、7歳前の子供には、カミが宿るといわれた。子供だけが、ガメラという「カミ」の意思に反応したと解釈できるこの場面は、実に説得的で、そして日本の怪獣らしい名場面だったとおもう。
 設定としては、ガメラの頭にある「スピリッツ・クリスタル」で、子供たちの意思に働きかけた、ということらしい。

 さて、ガメラとは対照的に、ジーダスは容赦なく人をとって食うので、怪獣らしい恐怖に満ちている。最初の襲撃シーンの迫力が、実に怪獣映画らしくて良い。やはり怪獣は人をとって食わないと!

 特撮もみごとである。

 敵怪獣ジーダスは、平成バルゴンともいえる重厚な爬虫類型の造型で、なかなか良い。鋭くのび、ガメラを串刺しにするハープーン舌攻撃もかっこいい。

 まず序盤の港町での戦闘場面が良い。
 ジーダスに吹き飛ばされたトトが突っ込む民家など、瓦の一枚一枚、部屋内部の新聞紙、壁にかけられたハンガー、茶碗まで造型されているほどである。ミニチュア造型の極地といった感がある。

 中盤以降は、橋や、名古屋の高層ビルといった高度のある戦場で、ガメラとジーダスが、立体的に交戦する。とくに、ふきとばされて高層ビルに突き刺さるガメラの絵など、じつに新鮮である。

 俯瞰カットで、橋の上でガメラと対峙する絵など、思わず息を呑む。巨大なジーダスに立ち向かうガメラが、まだ成長途中で、あまりにも小さく、か弱く見えるのだ。心憎いカットである。

 また、ビルの破壊シーンも、細やかに描かれており好感がもてる。視点も、少年たちのそれにあわせるように低い位置におかれ、実に現実感がある。

 巨大な怪獣どうしの戦いにまきこまれたら、人間などひとたまりもない。当然のことだが、意外と説得力のある絵は少ない。しかし本作では、それがよく描かれている。

 このへん、大マガツの戦いにまきこまれた新米ゲキってかんじでいいんだよなー。

 色々と、三龍戦騎RPG的、SF創作的に参考になる場面は多い。

 しかし、疑問点もある。

 まず、この世界における「ガメラ」ひいては「怪獣」とは何なのか?
 その点についての説明、設定考証が劇中でみられない点は、非常に納得がいかない。これは、一個の作品として大きな瑕疵かもしれぬ。

 現代日本に、あれほどの巨大な生物が出現し、大災害をまきおこすという異常事態が生じているのである。SFマニアでなくとも、なぜ? と思うのが自然である。

 たしかに、上述したように、本作の狙いからすれば、説明はなるべくしないほうがいいのだろう。
 しかし、最低限度の、設定の説明は欲しかった。とくに、ジーダスがどういう出自の怪獣なのか、全く劇中で触れられていないのは不満が募る。(シナリオ段階では、ギャオスの肉を食らったトカゲが変異していく描写があったそうだ。)

 怪獣好きは、怪獣が当然のごとくに存在する世界という「お約束」として納得するのかもしれないが、この映画は、従来のガメラとは違う境地をめざした意欲作であるはずだ。

 だからこそ、そうした基礎的なところはしっかりかためていただきたいのである。怪獣を知らない一般客に疑問をいだかせない程度の現実感は、いくらファンタジーとはいえ、現代日本を舞台にする以上、絶対に必要である。

 その意味で、自衛隊の描写にも不満がのこる。本作には、戦車などの兵器は一切登場しない。わずかに輸送トラックなどが映るのみである。

 しかし、いくら「マニア向け怪獣映画ではない」とはいっても、30年前に巨大生物があらわれている世界である。再度の怪獣出現時には、最低限の自衛行動がみられてしかるべきである。

 ほんの1カットでいいから、防衛出動した戦車が、少年たちの眼前をよこぎるような絵が欲しかった。まあ、昔の怪獣映画でも、けっこう自衛隊が登場しないものはあるのだが、本作は政府の組織も少しだが登場するのに、戦闘車両が登場しないというアンバランスさが気になってしまう。

 やっぱり、兵器とか、プロの軍人のかっこよさを子供、とくに男児にみせるというのは、怪獣映画の重要な使命だと思うのである。

 非日常的な破壊、そして戦闘をみたいから、観客は怪獣映画をみるのだ。きれいごとだけでは、創作はできない。怪獣映画の本質の一端を、もっと正面から見つめてもらいたかった。

 もし、
 自衛隊に対する拒否反応みたいな意識が、スタッフ上層部にあったのだとしたら、日本を守ってくれている軍人に対して失礼極まりないだけでなく、それはあまりにも偏った認識であろう。
 (まあ、そこまでの事情はないとは思う。しかし、日本の教育界などにおけるヒステリックな軍事アレルギーをみていると、心配になってしまう。)

 とはいえ、巨大生物対策審議会が解散され、自衛隊の運用にも慎重であるべき……などとニュースで言っている場面がチラリと冒頭でうつっているところからすると、法的な規制があって、自衛隊は出動できかった、という解釈もできそうだ。少年の目でみた視点としては、ギリギリ、納得できる範囲ではあろうか。

 まあ……、政府としての対応の描写が皆無というわけではなく、最低限の配慮がされている点は評価できる。
雨宮博士の、怪しげな博士風の雰囲気がイイ。いきなり、ガメラを成長させてジーダスにぶつける案にこだわり、戦車などを使おうと一顧だにしないあたり、かなりのぶっとび博士である(笑)。)


 全体に、本作は、平成ガメラ三部作のような設定解説を極力拝するつくりになっている。しかし個人的には、少しは、難解な軍事用語、SF用語が子供向け映画に登場したっていいと思うのである。

 私など、小学生のころから、専門用語が怪獣映画にでてくると、プロフェッショナルな大人の世界にあこがれ、専門書をひもといて自分なりに研究したりしたものだ。

 その過程で、
 軍事学、生物学などの片鱗を子供なりに理解して、夕食どきに親子で話題にでも出来たら……それは、小学校の授業などと比較にならない、良い勉強になるとおもうのだ。
 (原作版の大長編ドラえもんの初期作品は、ここらへんが上手い)

 成長したトトの顔が、どうも好みではない。まあこれは主観だから仕方ないか? しかし、可愛いモンスターとの交流を描くというなら、ポケモンでいいではないか。

 怪獣は、「外見的に」可愛い存在である必要はない。

 神格性をもった、容易には交流できそうもない巨大な存在と意思疎通が成立するところに、終盤の感動があるのではないか。

 なればこそ、成長後のトトの外観は、可愛くないほうがよい。少年との交流を描くのはいいが、外観には威厳がほしいところだ。

 あと、光線ももっと撃ってほしいなあ。ま、これも主観であるが(笑)。

 パンフレットには、ガメラとジーダスの体内図解がのっており、これがかつての怪獣図鑑を彷彿とさせる出来で、感涙モノ。マスト買え!

 ジーダスの出現場面は、伏線もはられているが、やや唐突に感じる。
 せめて、漁船が謎の巨大物体に撃沈される、そういう絵がほしかった。ただ船員が海に引き込まれるだけでは、サメに襲われているのと変わらず、いまひとつ危機感があおられない。

 ジーダスは、特殊能力や光線技もなく、外観はかっこいいのだが、いまひとつ敵怪獣としての印象が薄いのが欠点か。

 設定としては、ジーダスはトカゲがギャオス細胞を食らって変異した怪獣であろう、一言、雨宮博士にそういわせてくれれば、より話全体が説得力をもったことだろう。

 この設定だと、ほかにもギャオス細胞由来の怪獣がいることが考えられ、世界観が膨らんで、良いなあ。次回作にも期待したい。

 「赤い石」「緋色真珠」についての説明もいっさいないが、これは正解。理解できた。真珠の産地という舞台の説明もできるし、上手いやり方である。
 設定としては、アヴァンガメラが後のために体内に蓄えていた固形エネルギー結晶体、といったところのようだ。

 それにしても、本作は、説明がないから、色々と想像を刺激される。
 アヴァンガメラ自爆後、トトは、33年かけて、またあの卵の形に再構成されたのだろうか。また、エサもたべず、あのように急成長したのか。

 舞台が、伊勢神宮に近い場所であるし、大王町じたい、日本神話と関係がある土地柄のようである。本作のガメラは、終盤の「幼女リレー」とあわせ(笑)、じつに日本の怪獣らしい、神秘的な属性を付与されている。

 音楽も、神々しい女性コーラスを使うなど、新鮮である。

 この世界のガメラは、いったいどういう存在なのだろうか。ぜひ、続編でそのあたりも見せてもらいたいものだ。

 おまけ
 中盤、対ギロンっぽいパロディがあった。ガメラへの愛がかんじられるw

 宣伝について
 本来は創作論とは無関係なのだが、個人的に思うところがあるので付記。

 制作者側としては、デートムービー、ファミリームービーとしてみてもらいたいようだが、怪獣映画の宣伝は、本当に難しいようだ。シロウトながら、わたしも三龍戦騎という未来怪獣恐竜モノのキャッチコピー考案の難しさで悩んでおり、スタッフのそうした述懐に共感を覚える。

 ガメラ3あたりでも、そうした宣伝はしたのだが、いまひとつ収入はふるわなかったとのこと。これを読んだ皆さんは、是非、怪獣好きではない友人なども誘って、劇場に足を運んでほしい。
 それが、怪獣映画へのいわれなき偏見を払拭する一助となることを、一怪獣ファンとして祈るばかりである。
 ……で、三龍戦騎のキャッチコピーは orz

 参考図書
 「小さき勇者たち GAMERA 公式ガイドブック」
 メディアワークス、2,200円。
 映像、設定解説、スタッフインタビューが充実しており、創作論的に、スタッフの狙いがよくわかり、勉強になる。ガメラの歴史もよみやすく総括されており、本作ではじめてガメラに触れた方にもお薦めである。


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表紙へトトトトト
2006.5.4.