私的怪獣創作メモ

 いわゆる、日本特撮ものにおける「怪獣」らしい怪獣を創作するにはどういう点に注意したらよいか。
 そして、その範疇にとどまらない自分なりの怪獣SFを書くに当たって、何に注意したらいいか。
 ということを綴った私的創作メモ。
 自分の中では結論が出ているが、あちこちに書き散らしていてまとめてなかったので、
 この10年で気付いたことを自分のためにまとめておく。

 なお、本稿は「私の」怪獣SF創作のためのメモであって、
 過去の怪獣モノの焼き直しやリメイクの製作には役立たないことをお断りしておく。

 
最初に結論


 
<怪獣の私的定義>
 怪獣とは、人類や文明に対する反証であり、SF考証によって創作される生物をいう。


 
<怪獣の本質>
1.龍神やドラゴンのSF的処理
2.文明・対・自然、という神話的二項対立のSF的処理

 
以上をシナリオに反映させると…


 <怪獣シナリオ三原則>

1.怪獣は、人智を超えた存在でなければならない
2.怪獣は、SF考証によって設定されるガジェットでなければならない
3.怪獣は、人類や文明に対する反証となるキャラクターでなければならない

 
以上をデザインに反映させると…


 
<成田亨先生による怪獣デザイン三原則>

1.「日常の生物の巨大化」にはしない
2.「身体のバランスの崩れたお化け」にはしない
3.「生理的に不愉快なもの」にはしない

 
怪獣シナリオ三原則の一言解説


1.怪獣は人智を超えた存在でなければならない

 【意味:怪獣は、人類の科学を超越し、人類の文明やテクノロジーを相対化することにより、科学や文明に対する疑問や批判を可能とする存在でなければならない。】
   →派生原則1:怪獣は科学の常識を越えた特殊能力をもたねばならない
    派生原則2:怪獣は通常の軍事的手段によって倒されてはならない
    派生原則3:怪獣は人間の規定する善悪の概念を超越した存在でなければならない
    派生原則4:怪獣は人類に制御されてはならない

     関連論点:
    ★巫女を伴う平成ガメラは派生原則4に抵触するか
    ★兵器であるという設定の怪獣は、本原則に抵触するか
    ★怪獣は、劇中世界において、非日常的な存在であるべきか
    ★怪獣は、つねに通常兵器やハンターに倒されてはならない存在なのか
    ★生態系を構築する怪獣は、本原則に抵触するか
    ★トライスター版ゴジラは怪獣か
    ★大怪獣総攻撃版ゴジラは怪獣か
    ★ウルトラシリーズに登場する妖怪型のキャラクターは、怪獣か

2.怪獣はSF考証によって設定されるガジェットでなければならない

 【意味:怪獣は、龍やドラゴンを祖先とする存在だが、それらとの相違点は、まさに科学考証・SF考証の有無にある。ここを疎かにしてはいけない。科学知識だけでなく、肝心なのは、SFマインドである。】
   →派生原則1:怪獣はファンタジーにおけるドラゴンとは区別されねばならない
    派生原則2:怪獣は伝奇物語における妖怪・精霊・神などの超自然的存在とは区別されねばならない
    派生原則3:怪獣描写においては非科学的な表現は避けなければならない

     関連論点:
    ★怪獣に関する生物学設定は、原則1および原則3派生原則1に抵触しないか
    ★過去作品に依存し、(例えば怪獣の出現理由を語らないなど)怪獣のSF考証をないがしろにしたシリーズものは許されるのか

3.怪獣は、人類や文明に対する反証となるキャラクターでなければならない

 【意味:怪獣ものとは、SFである。SFとは、科学および人類の可能性を疑似科学的あるいは科学的手法を用いて考察する空想文学をいう。さらに、怪獣は、自然の象徴である龍などの神格を祖とする。したがって、怪獣は、自然神の象徴として、人類の科学文明を相対化し、反証にすらなりうるキャラクターとして創作されるべきである。但し、怪獣がガジェットであり同時にキャラクターでもある点は、作劇上、さまざまな困難な問題を生起させる点に注意が必要だ。】

   →派生原則1:怪獣は神格性をもたねばならない(参照条文:派生原則1の3〜4)

     関連論点:
    ★怪獣ものの舞台は現代日本であるべきか
    ★怪獣は抑圧された少数者の象徴、または彼ら彼女らの反社会性をドラマ面において象徴すべきか
    ★怪獣が、ガジェットであり同時にキャラクターであることにより作劇が困難になるか
    ★怪獣は、つねに人間に恐怖を与える存在であるべきか

 
以下、詳細メモ

1、
ゴジラ映画、ガメラ映画やウルトラマンシリーズといった作品に登場する、いわゆる「怪獣」は、ホラー映画に登場するゾンビや、洋画に登場するクリーチャーたちとは、どこが違うのか。怪獣を定義づける意味は、それらと怪獣をきちんと区別し、創作するためにふまえておかねばならない事項を明確にする点にある。本稿ではこれを明らかにし、私的創作の糧としたい。したがって本稿は、クリーチャーを創作する際にも有益と信ずる。


2、
各種怪獣映画を分析すると、怪獣がほかのモンスターと異なる特徴は、以下のようなものである。分析過程の個々の事例は略す。

●通常兵器が効かない、一国の軍隊が総掛かりでも倒せない怪獣が多い(戦力として戦略兵器なみであり、生物として異常)
●敗戦国日本における「戦争」の象徴として描かれることがある
●巨大であることが多い
●都市を攻撃することが多い
●特にゴジラなど大怪獣は、人類が殺害することはほぼ不可能であり、台風のような自然災害として人々が接している(映画のラストでは大概、海に帰っていく)

 上記のうち、「戦争の象徴としての怪獣」は、初代ゴジラなどに顕著である。
 たしかにそうした側面も否定しきれないが、それは時代性を制作者がとりいれたためであろう。
 本稿ではより普遍的な怪獣の本質を考えてみたい。

 上記の特徴を考慮し、成田亨氏、実相寺監督の著作・発言などをふまえると、日本の怪獣は、「自然の象徴であって、人類文明に対する反証である」といえるのではないか。単に倒されるだけのモンスターではなく、多分にアニミズム的な「神格性」がある、と言い換えても良い。

そもそも怪獣ものの起源は、1954年公開の「ゴジラ」にあるが、ゴジラが恐竜タイプではなく、大ダコや巨大虫であったなら、あれ以後、連綿と怪獣モノというジャンルが続いただろうか。そうではないとおもう。現に海外でそのての映画が20本以上シリーズ化されたなどという話は聞かない。また、多くの怪獣シリーズにおいて、ゴジラに似た恐竜、爬虫類型の怪獣が王道として扱われている。

これは、怪獣という存在の背後に、各地の文明圏における神話や伝承に広く見られるドラゴンや龍といった存在が鎮座していることの証左だと考えられる。
爬虫類的外観をもつ神格、龍やドラゴンが具備する特殊能力、人類との対立関係(あるいは共存関係)といった諸点において、それらと怪獣の間には、多くの共通項があることが、その理由である。龍こそ、怪獣の起源であるといってもいい。

しかし、漠然とではあるが、怪獣ファンなら、ファンタジーに登場するドラゴンや神話に登場する龍などと、映画の怪獣が異なることは分かることとおもう。

怪獣は、それらと共通する特徴をもつが、同時に、それらとは異なる存在である。では、どう違うのか。
怪獣を創作するにあたっては、この点を踏まえねばならない。

3、
端的にいえば、SF考証の有無が、ファンタジーのドラゴンなどと、怪獣との分水嶺であると考える。
したがって、私的には、以下のような怪獣原則が導かれる。(改説した)

1.怪獣は人智を超えた存在でなければならない
2.怪獣はSF考証によって設定されるガジェットでなければならない
3.怪獣は、人類や文明に対する反証となるキャラクターでなければならない

 私的怪獣三原則

1.怪獣は人類にとって不可知でなければならない
2.怪獣は通常兵器で倒されてはならない
3.怪獣は人類に制御されてはならない


怪獣を描くさい、これらに気をつけていれば、獣鬼兵バムソードの二の舞となることもないだろう(まだ引きずってる)

怪獣映画のもっとも原初的な形態は、ゴジラ1作目にみられるように、人類(文明)・対・怪獣という図式である。

ここで注意したいのは、人類だとか文明といったものにたいする反証、あるいは対義概念として怪獣は描かれる、ということである。
すなわち、スケールの大きさが求められる。

一人一人の人間を認識し、こだわって襲ったりするのはエイリアンやプレデターなどのクリーチャーであり、
怪獣は、より大きなモノを対象として行動する。例えば都市であったり、軍の大部隊を相手取って戦ったりする。
また、人間的な感情にとらわれて行動することもない。
人間のスケールや善悪といった人間の規範を超えた存在であることに、怪獣の特徴がある。

怪獣が未知の存在として、文明に脅威を与える以上、
その体構造や習性などが最初から全て明確にされていては、神格性もあったものではない。
また、お話としてもりあがらない。このことから1が導かれる。


しかし、神格をもつ爬虫類というだけでは、龍やドラゴンと変わらない。
ここで、怪獣が、現代の映画という映像メディアにおいて登場した存在であることに注視すべきである。

すなわち、そこでは、おおむね現代の世界を舞台に巨大な生物が暴れる様子をクライマックスとするため、
科学的、SF的な理由付けが必要とされる。逆に言えば、神話世界における怪獣ものは成立しづらい。

また、人類や文明との葛藤が怪獣の本質であるならば、科学によって怪獣が分析されることは、いわば物語の前提条件ですらある。

そうすると、怪獣ものにおいては、SF考証が必要不可欠である。といえる。

しっかりしたSF設定なくして、現代や未来を舞台として説得力のある怪獣を描く事は不可能だからだ。
ただ、仮に、怪獣そのものはブラックボックスであり劇中で設定が語られなくても、
怪獣によって生起する軍事および社会的な問題についてリアルにシミュレートする描写があれば、十分説得力を持つ。
SF考証が必要といっても、必ずしも怪獣本体について詳細な生物学および物理学的背景が求められるわけではない。

もっといえば、具体的に細かい科学的考証を連ねることは重要ではない。
ちょっと科学雑誌からネタをひっぱってきて台詞に入れてみるとか、そういう些末なことは問題ではない。
いかにSFマインドあふれる絵を描くか! つまるところ、これである。


ただ、SF考証を突き詰めると、原則1と矛盾する可能性もある。
SF考証、たとえば怪獣の生物学的側面をくわしく描けば描くほど、怪獣のカミとしての神格性は希薄になり、生物に近くなっていくからだ。
そのぎりぎりの設定におけるせめぎあい、絵としての説得力をどれだけもたせられるか、
このあたりが、怪獣SFを創作する醍醐味であろう。


例えば、84年版や平成ゴジラでは、カドミウム弾や抗核バクテリアが有効であるなど、ゴジラの生理機構の解明が進み、ゴジラの神格性と人類の科学のギリギリのせめぎあいが、お話をもりあげていた。結局は人類の科学は、ゴジラの秘密を解明しきれないわけだが、そこにいたるまでの過程が面白いわけである。また、人類とゴジラの攻防を説得力あるかたちで描写するには必要でもある。

同様の手法は平成ガメラ三部作でもとられている。
一作目において、ガメラは古代文明が生み出した兵器である、というSF考証がなされ、
二作目では生態系の守護者という仮説がとびだし、
三作目にいたっては、マナのよりしろとされた。

このSF設定の変遷は、単に古代文明の兵器として現代文明に対する反証となっていたガメラが、
しだいに大きな概念の象徴として深化していく過程をたどっているように思われ、興味深い。
三作目の設定はオカルト的ではあるが、大きな視点からみて、二作目の設定を継承している。
こうした設定の意図的な変遷や拡大解釈は、映画全体のカラーにも強く影響を与え、
平成ガメラ三部作をマンネリ化させず、不朽の名作とするために有益だったものと推測される。

ところで、
ふつうのモンスターは軍隊によって退治されてしまうが、日本の怪獣ものらしくするなら、自衛隊との戦いは華であり、そこからが本番である。したがって、通常兵器で簡単に倒されてしまっては、怪獣らしくない。神格性もない。怪獣は、対怪獣用の超兵器か、人類を超える宇宙的存在か、怪獣によってしか倒されるべきではない……のだろうか?

しかしこれは原則論にしか過ぎない。必ずしも遵守する必要は無い。

怪獣をリアルにSFとして考えれば考えるほど、怪獣が通常の軍事的手段で倒される可能性が高まる。
思うに、「通常兵器が全く効かない」という特性は、強烈に怪獣の神格性をアピールする描写ではあるが、
全ての怪獣に共通するものではない。

それは、ゴジラやガメラなど、「大怪獣」と呼称される一部の強力な怪獣の特性であって、
今後、開拓していくべき小型・中型怪獣というジャンルでは、
リアリティの観点からいえば、一定以上の火力によって殲滅されても不自然ではない。
単に耐久力だけでなく、その他の面で、怪獣独特の神格性だの特殊能力だのを描写できれば十分である。

また、通常兵器による攻撃には耐えることが出来る怪獣でも、
怪獣退治に特化した「専門家」のもつ武器に倒されることは、作品世界の道理からいって当然である。
ウルトラマンでいえば科学特捜隊、モンスターハンターでいえばモンスターハンターに怪獣が倒されることがあっても、
怪獣らしい神格性が否定されるものではない。

自衛隊や警察力では対応しきれない怪獣事件に際して科特隊が出動するように、
騎士団や傭兵団では対応しきれない飛竜討伐にモンスターハンターが出動するという設定面における相似形が両作品に見られる点、きわめて興味ぶかい。

余談であるが、連作で怪獣モノを描く場合、そうした専門家集団の描写はストーリー展開を容易にする利点があるので、
こうしたパターンを「人間に怪獣が倒される物語は怪獣モノとはいえない」等として否定する結論は、
作劇論からみても妥当ではない。

関連して、トライスター版ゴジラが対艦ミサイルで殺される結末には批判があるところだが、
しかし彼もまた、怪獣といえる。

人智を超えた存在という定義は、必ずしも防御力のみを意味するのではない。
それが速度や運動性によって描写されても良いのである。
トライスター版ゴジラは、あの巨体に似ぬ高度な運動性、敏捷性をもち、米軍に一時対抗してみせた。
ただそれがゴジラの名にふさわしいかというと疑問符がつくが、怪獣としては十分である。

次に、怪獣は、人類に制御されてしまってはならない。

神格性が失われ、ただの巨大ロボットと変わらなくなってしまうので、これはダメである。
ウルトラセブンにみられる、宇宙人の侵略兵器としての怪獣や、異次元人に操られる超獣、これらはいずれも怪獣ではない。
この点、平成ガメラ三部作での「巫女」とガメラの関わりあいという主題が提供する論点は興味深い。ガメラは少女に制御されたわけではない。巫女という設定により逆に神格性が強調され、そのリアルなSF考証とあいまって、怪獣映画の傑作となったと評価できる。

また、メカゴジラについては、代によって評価が変わるだろう。
特筆すべきは、ミレニアムシリーズの「ゴジラxメカゴジラ」に登場した三式機龍である。
彼は、本稿に言う怪獣である。
本作の設定の秀逸さが、
機龍は現代科学によって生み出された兵器であると同時に、
神格性をもち人類に制御しきれない怪獣であるという設定を可能としたのである。

4、
関連して、なぜ多くの怪獣が、恐竜型をしているのか。

これも疑問だが、最初の怪獣がゴジラだったからという以外に、やはり、失われた自然の象徴として人類の兵器に相対するには、我々の遺伝子に刻み込まれた、もっとも原始哺乳類にとって脅威だった存在――すなわち、恐竜こそがふさわしかったからだと思われる。

5、
こうしてみると、怪獣ものの精髄とは、「人類文明 対 自然」の二項対立にあるのであって、だからこそ、怪獣は、単なるクリーチャーのようにひ弱な存在であってはならないと考える。

デザイン面から、上記の論考を補強する、ウルトラ怪獣デザインの三原則というものがある。成田亨先生が提唱されたものだという。怪獣らしい怪獣を描くときには、参考にすべきである。

1.「日常の生物の巨大化」にはしない
2.「身体のバランスの崩れたお化け」にはしない
3.「生理的に不愉快なもの」にはしない

1は、ただ普通の動物を大きくしただけでは、怪獣といえるほどの神格性や独創性がないからであろう。それは洋画のB級モンスターである。

2は、人間の身体バランスを崩したり、器官をやたら増やしたりといった「病的な」デザインを避けるべき、という指針だろう。それはゾンビなどホラー映画のクリーチャーであり、怪獣とは程遠い。ただし、グリフィンなどのように、生物として不自然でないレベルでの合成体は、怪獣デザインの基本技術として容認される。

キングギドラも、考えてみれば腕がなく首が3本というデザインは条項2からはギリギリだが、大きな翼が腕の代替物として認識されるし、長大な双尾が、首と均衡を保っていて、生物として美しい仕上がりとなっている。

3は、表面が粘液でぬれていたり、皮膚が破壊されていたりといった悪戯にグロテスクなデザインは怪獣にはふさわしくない、ということだろう。それらは安易に恐怖心をあおる、工夫のないデザインである。

怪獣が自然の象徴であるなら、それは、外見的にも、生命力にあふれるものでなければならないのである。
こうした原則を守っていたからこそ、ウルトラ怪獣には、ゴモラやレッドキングといった傑作怪獣が生まれたのであろう。

6、
こうしてみると、洋画のゾンビやらエイリアンやらと比較した場合、怪獣の相違点は明確だ。

要するに、怪獣は、カミであると同時に生物でもあり、とにかくカッコよくなければならぬ。

人類の文明に力強く対抗し、互角に戦えるほどの存在だ。それは、大自然の脅威そのものであり、生命の躍動を感じさせる「陽」の存在でなければならない。

だから、怪獣ものにおいては、人間のフォルムを崩したゾンビや、粘液を垂れ流しているクリーチャーのような、「歪な生命」を描いてはならないのである。生物として自然な形態でなければならない、ともいえる。それでいて、戦闘的であればいうことはない。

ウルトラ怪獣の著名なもののひとつに、ジャミラというのがいる。これは上記1に反しているように思えるが、ジャミラはもともと人間だったがゆえの悲劇性をもつ怪獣であるから、敢えてそうしたデザインにしたのだと考えられる。

さらに、怪獣が有する人智を超えた特殊能力は、絵として、外見デザインにも反映されているべきである。これはキャラクターデザイン論からいって当然だろう。だから、一部の洋画によくみられる、ただの巨大昆虫とか、巨大蛇などは、怪獣とはいえない。動物である。神格性と、それを象徴する特殊能力……それは、外見にも現れていなければ、優れたデザインとはいえない。
 周知のように、成田亨先生は、金属など無機物や抽象芸術のエッセンスを怪獣デザインと結合させることで、
 怪獣という生命のもつ不思議さ、SF性、超自然性を雄弁に表現されたのである。

 まんが「強殖装甲ガイバー」における各種クリーチャーデザインも、この意味で、非常に参考になると考える。

7、
付言すると、怪獣モノの映画としての発達史とは別に、怪獣を文明に対置する存在として描く以上、そう言う観点からも科学考証やSF考証も重要である。怪獣が、文明に対立する存在である以上、文明の成立基盤である科学技術によって分析されてしかるべきだからだ。

したがって、怪獣の神格性という要素とは矛盾するようだが、怪獣は、その生態においても「生物として」描かれているのが理想的だ。そのあたりのバランス感覚が大事であろう。


8、派生原則について

★巫女を伴う平成ガメラは派生原則4に抵触するか
 …抵触しない。上述した理由による。

★兵器であるという設定の怪獣は、本原則に抵触するか
 …現代文明が創り出した怪獣ならば抵触する。しかし、人類の科学を超越した古代文明や未知の宇宙技術などによって生み出された怪獣の場合、人智を超越しているのだから、抵触しない。

★怪獣は、劇中世界において、非日常的な存在であるべきか
 …必ずしもそうではない。怪獣と人間の関係を描く場合において、怪獣の全てが解明されてはいなくても、怪獣を資源として人類が利用する世界なども想定されうる。絶対的な神格をもつ怪獣なのか、より人に近しい怪獣なのかという程度の差である。

★生態系を構築する怪獣は、本原則に抵触するか
 …上述した理由と同じ。生態系がまるごと人智を超越している場合もありうる。
  また、一つの生態系が一個の怪獣であるという描写も考えられるからである。
  むしろ、ゴジラやガメラのように、基本的に一頭しか存在しない、という怪獣のほうが生物として不自然であるし、
  なにより、「シリーズものを前提とすると、彼を倒すことが出来ない」というドラマ的な制約が多すぎる弊害がある。
  よって、生態系を構築する怪獣、生物種としての怪獣は、今後、積極的に模索されるべきである。(当然、その舞台は、現代日本に限定されるべきではない!)

  そうした「怪獣が多数存在する世界観」では、亜種や派生型を多数設定でき、スピンオフ作品や続編を製作しやすく、また、ファンによる二次創作活動を促進させやすいという利点も考えられる。難点としては、とにかく、その世界の歴史・文化・地理など、全てを制作者が設定しなければならないという、実に楽しいが、死ぬほど大変な作業が必要になることがあげられる。くそッ! こいつは楽しくて仕方無いぜ!

★トライスター版ゴジラは怪獣か
 …上述したとおり本稿に言う怪獣である。

★大怪獣総攻撃版ゴジラ(以降GMKゴジラ)は怪獣か
 …怪獣ではない。大東亜戦争で没した人々の残留思念であるから、その由来は人間にしか過ぎず、また行動原理も彼らの恨みを晴らすものであったことが映像から推測される。これは卑近な、人間的な行動原理であり、人智を超越した神格性は感じられない。
 また、GMKゴジラがSF考証ではなくオカルト考証によって成立していることも、本稿にいう怪獣とはいえない理由である。

★ウルトラシリーズに登場する妖怪型のキャラクターは、怪獣か
 …怪獣ではない。SF考証によって成立していない以上、議論の余地はない。
 長期シリーズを作るに当たって、登場キャラクターにバラエティをもたせるため、
 怪獣と共通性があり、視聴者に説明不要で理解されやすい「妖怪」を登場させることは作り手にとっては魅力的な選択肢なのだろうが、
 しかし、それは、SFマインドを具備する「怪獣」ではない、と言わざるを得ない。
 例えば、
 SF小説「宇宙船ビーグル号」に登場するクァールやイクストルといったSFマインド溢れる異星生物の見事さに比べれば、妖怪タイプの怪獣は、既製の概念にもたれかかった凡作であると考える。

(妖怪モノというジャンルそのものを否定しているわけでは断じてない。妖怪とは零落した神であり、怪獣を理解するためには、妖怪についてもいわば隣接教養科目として学ぶ必要があることは当然である。)

★怪獣に関する生物学設定は、原則1および原則3派生原則1に抵触しないか
 …抵触しない。既に述べたように、(生物学設定にかぎらないが)怪獣のSF考証と神格性とのせめぎあいが、怪獣もののキモである。


★過去作品に依存し、(例えば怪獣の出現理由を語らないなど)怪獣のSF考証をないがしろにしたシリーズものは許されるのか
 …許されない。怪獣という空想の存在をリアリティをもって描写するには、SF考証をきちんと行うのは大前提である。
 したがってSFや科学について学ぶ気概のない者は、怪獣ものを手がけるべきではない。

 怪獣という単語の意味、怪獣の本質を考察せず、漫然と過去の有名作品のリメイクを繰り返したり、
 有名怪獣をスター俳優のように使い回すような作劇手法は避けるべきである。
 また、ファンの側も、そうした作品を拒絶し、より優れた作品を創作するよう、制作者側に意見を伝達しなければならない。

 少なくとも、ひとつの作品内で「怪獣が出現する理由」すら描写できていない作品は、
 一本の物語として完成していない欠陥品とみるべきであり、シリーズものにおいて陥りがちな落とし穴だろう。

 筆者は、「ゴジラ ファイナルウォーズ」が大好きだが、これから新たな怪獣SFを書こうという場合、
 あの作品の手法は使えないのである。なぜならあれは、観客全員が、ゴジラなどの怪獣という存在を既に知っているという、
 創作論的にはきわめて特殊な、作品の外部事情に依拠した世界背景だからだ。
 本来作品とは、それ単体で完結しているべきである。

★怪獣ものの舞台は現代日本であるべきか
 …すでにのべた各原則からすれば、その必要は無いと考える。
 旧態依然とした怪獣ものから離脱するためには、むしろそれ以外の可能性を積極的に模索すべきである。
 海外SF小説に見られる、異惑星の生態系描写の手法は学ぶ点が多い。
 「パーンの竜騎士」「地球の長い午後」、
 邦画でも「風の谷のナウシカ」などの異世界構築におけるSF考証は、おおいに参考になる。

 怪獣ものの本質が、自然対文明の二項対立にあると捉えると、
 「アバター」「風の谷のナウシカ」なども、怪獣SFとして論じる対象となる。

 自然と文明、どちらの勢力が強い世界・時代なのか、というバランス配分によって、物語の展開が異なってくる面白さもある。
 怪獣側が圧倒的に地球を支配しているのが「ナウシカ」の世界であり、
 逆に、たとえば「ウルトラマンコスモス」で描かれた近未来では、すでに怪獣は保護対象となるほど、
 矮小な存在になってしまっていた。文明が自然を完全に克服してしまった世界と考えられる。
 このように、厳密に現代日本に舞台を限定しないことで、多様な物語を創作できる可能性が生じるはずである。

★怪獣は抑圧された少数者の象徴、または彼ら彼女らの反社会性をドラマ面において象徴すべきか
 …たしかに、怪獣を純粋にキャラクターとして捉えると、そういう側面もある。
  現代においては、自然はすでに科学に敗北しており、怪獣もまた、弱い少数者としての側面ももつのだろう。
  だから、怪獣に寓意性をもたせるにはこうした怪獣描写は有効な手法であるが、これを強調しすぎると、
  怪獣もののSF性が希薄になり、メルヘンでも構わないことになってしまうので、過度に強調すべきではない。

★怪獣が、ガジェットであり同時にキャラクターであることにより作劇が困難になるか
 …困難となる。本来、主要キャラクターである人間たちの葛藤とその解消を描くのが物語(ドラマ)であるのに、
 彼らにとっての障害物にしかすぎないガジェットである怪獣が、単体のキャラクターとして大きく宣伝され、
 怪獣の破壊シーンが見せ場となる。大いなる矛盾である。

 これについての対策としては、怪獣を代弁する人間のキャラクターを登場させるとか、
 そもそも世界背景を大きく現実から乖離した異世界などに設定し、完全に怪獣側の視点で物語を展開する、
 といった手法が考えられる。
 映画「アバター」は、両者の中間点にたつ作品であろう。

 怪獣ものは、その本質において、ドラマ的には大きな矛盾をはらんでおり、
 バランス感覚のある作劇法が求められよう。だからこそ挑戦する甲斐があるのだが。

★怪獣は、つねに人間に恐怖を与える存在であるべきか
 …そうではない。もちろん、怪獣が大自然の象徴である以上、基本的には、人類の恐怖や畏敬の対象である。
 しかし同時に、自然は、人類に様々な資源をもたらす存在でもあるのだから、多面的な性格をもつ。
 またそもそも怪獣は生物なのだから、色々な性格描写があってしかるべきである。
 具体的に言えば、怖いばかりでなく、ユーモラスなかわいげのある描写も必要である。
 特に初代ウルトラマンの怪獣からそれがよくわかる。
 モンスターハンターP2シリーズにおいても、イャンクック、ダイミョウザザミ、ティガレックス(戦闘中でも餌を食べるところ)、グラビモス(脚を攻撃され続けると可愛らしく転がり出すところ)、オオナズチ(全体的に可愛い)、ベルキュロス(罠にかかったときの鳴き声が可愛い)などにこの傾向は顕著であり、怪獣の本質を捉えた描写として、高く評価したい。飛竜の王リオレウスですら、ハンターに気付いていないときは微かに尻尾をゆらして虚空をみつめたりして可愛らしいものである。しかしギザミは断じて駄目である。ガンナーで行くとスキが無くて可愛くない。

 * * *


   ミレニアムゴジラシリーズ終了後、ゲームでは「モンスターハンター」、アニメでは「獣の奏者エリン」、
 映画においても「アバター」「クローバーフィールド」等、
 むしろ邦画界の外部から、新時代の怪獣たちが現れている。
 「ヒックとドラゴン」も、人と自然の二項対立という観点から伝統的ドラゴン映画に新風を吹き込み、
 怪獣ものに強い影響を与えずに置かない意欲作であろう。

 これからは、「怪獣」という単語すら使わず、現代日本が舞台ですらない。そういう、
 人と怪獣の新たな関係を模索するSF作品を描く覚悟で怪獣ものを創作しなければならない、と強く思う。


9、おわりに

 恐竜や神話のドラゴンなどをふまえ、SF考証を行い、ドラマ上の矛盾に耐えつつも創作する……
 怪獣SFを創作するのは、なんだか大変そうである。しかし、だからこそ面白い。

 最後に、
 週刊アスキー連載「樋口真嗣の暮しの手帳」第180号のあさりよしとお氏カット中台詞より、以下に引用する。
 キモに命じておきたい。

 >怪獣ものとか
  ロボットものなんて
  ジャンルは作り手側には
  存在しないんです

  それはかつて
  誰かがそういう物が
  登場する作品を
  作り上げ

  それを観た
  消費する側が
  作り上げた幻影

  そもそも そんな物を
  登場させるために作品を作るなんて、本末転倒

  
  まっさらな場所に
  この世に有り得ない
  物をポンと置き
  認知させるのは大変な作業

  それがこの世界に
  おいて何であって
  どういう力を持って
  いて というのを
  全て一から作って描かなきゃならないん
  です…

  怪獣とか巨大ロボが
  出る前提で作り始めるなんて
  スタート以前にハンデを負ってる
  ようなもの

  まともな作り手に
  とってはね

  そういうのが
  どういうわけか
  本数だけやたら
  あるってのは作品の
  一番大切な根幹を
  過去作品に
  オンブダッコで
  枝葉の設定だけ
  さしかえたインチキ
  が横行したから

  だからと言って
  怪獣やロボが
  登場するのが悪いんじゃなくて
  本当にその作中で
  世界が完結してますか?
  …って話

(引用終わり)

   


表紙へ

2010年8月27日 清水三毛 (C)MIKE SHIMIZU